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ヒクソンの父・エリオ・グレイシーは、なぜ木村政彦と闘うことになったのか? 『1951マラカナン』への道─。

2022年11月25日07時30分 / 提供:マイナビニュース

70余年前の「あの試合」を抜きにして総合格闘技史を語ることはできない。1951年10月、リオ・デ・ジャネイロで行われた”グレイシー柔術の創始”エリオ・グレイシーvs.”日本柔道界最強の男”木村政彦。長く語り継がれる「マラカナンの決闘」だ。

なぜ、両雄は闘うことになったのか? そこに至る過程とは? 最初、木村はエリオの実力を軽視し挑戦を受けようとはしなかった。木村の「意外な提案」とエリオの「苛烈なる決意」─。
○■エリオに対する木村の意識

「エリオを止めろ!」
1951年夏、ブラジル・サンパウロの日本人コロニーは大変な騒ぎになっていた。
当時、多くの日本人柔道家が柔術ルールでエリオと闘い、敗れ続けていたからである。日本が生んだ柔術の試合でブラジル人に負け続けるのは、日本からの移民たちにとって心地よいものではなかった。

エリオは一見すると強そうには見えなかった。身長170センチ、体重60キロと少々の小さな男が強いわけがない。彼と試合をするまでは誰もが内心、そう思っていたのだろう。だからエリオが対戦相手を求めれば、多くの者が気軽に受けて立っていた。
「私が闘ってきた日本人柔道家たちが、どの程度のレベルにあったのかを私は知らない。ただ相手が決まれば闘い、そして勝ち続けた。いつの間にか日本人柔道家たちに目の敵にされていた」
そうエリオが話した通り、彼の対戦相手たちは全日本クラスの大会に出場できるようなハイレベルな選手ではなかった。現地の日本人コロニーで暮らす柔道愛好家がほとんどだったのだ。

ただ、今度ばかりは状況が違っていた。
いよいよ日本を代表する柔道家、「鬼のキムラ」こと木村政彦がブラジルにやって来るというのである。在伯日本人の期待は大きなものになっていた。
しかし、グレイシーに対する思いの点で、木村と日本人コロニーでは大きな差異があった。エリオは日本から著名な柔道家がやって来ることを喜び、「打倒! 木村政彦」に燃え、逆に在伯日本人は、エリオの進撃を止めてくれることを期待した。ただ、木村はエリオの名前すら知らなかったのである。

木村のブラジル遠征には、山口利夫、加藤幸夫ら柔道家が同行していた。彼らが到着したのは1951年7月25日。その後に記者会見が開かれた。
木村と加藤、エリオと彼の兄カーロス・グレイシーが壇上の席につき会見は始まった。
実は、この時は「エリオ×木村戦」が確定していたわけではなかった。エリオは木村と闘う気満々で、周囲もそれを期待していたが木村にそのつもりはなかったのである。

○■試合直前に、まさかの骨折

「私はキムラと闘いたい」
エリオは、壇上でそう口にした。
この挑戦を木村がすんなりと受ける流れかと思いきや、そうはならなかったのだ。
木村はエリオに視線を向けてこう言った。
「挑戦する勇気を持ってくれてありがとう。でも、それは駄目だ。私と闘うには、あなたのカラダは小さ過ぎる」

確かに大きなウェイト差があった。当時、木村が93キロ、エリオ63キロと30キロも違ったのである。
木村は、続けた。
「どうだろうエリオ、ここにいる加藤と闘ってみないか」
エリオは、熱い口調で木村に言う。
「体重差なんて関係ない。あなたは私から逃げるのですか!」
「いや、そうではない。加藤は強い男だ。エリオ、あなたは加藤が役不足だとでも思っているのか」
「キムラ、私はあなたと闘いたいのだ」

そんな言葉のやり取りを木村とエリオは記者たちの前で繰り返した。話はしばらく平行線を辿ったが、結局エリオは加藤と闘うことを決めた。彼は加藤と比しても体重が10キロほど軽かったが、勝つ自信はあった。
そして、加藤を倒せば「キムラは私と闘わざるを得なくなる」とも考えていた。

エリオ×加藤戦は、1951年9月6日にリオ・デ・ジャネイロで行われることに決まる。
10分×3ラウンド、柔術ルール。
エリオにとっては問題のないことだが、柔術ルールには慣れていないはずの加藤も、この提案をアッサリと受け入れた。日本陣営がエリオの力量を軽視していたことがうかがえなくもない。

加藤は周囲にリラックスムードを漂わせる。一方、加藤に勝たなければ木村とは闘えないエリオは、会見後も試合に向けて熱のこもった稽古を続けた。
「あまり意気込むな!」
カーロスはエリオにそう言った。
だが聞き入れる様子はなく、エリオは一日じゅう道場でハードに稽古。オーバーワーク状態となり集中力を欠いていたのかもしれない。アクシデントがエリオを襲う…試合一週間前のことだった。
稽古中にバランスを崩して倒れたエリオは、胸部に鈍い痛みをおぼえる。そのまま稽古を続けようとしたが、とても耐えられる痛みではなかった。

病院へ直行。診断の結果、エリオはアバラ骨2本が折れていることを知らされる。
「試合は中止にするしかない」
兄カーロスは病院でエリオに、そう告げた。
「試合をするなんてとんでもない」
医者も、首を振りながら言った。
エリオはこの時黙っていたが、絶対に試合をするつもりでいた。
(もし棄権したら、キムラと闘えなくなってしまう)
そう思ったからである。

<次回に続く>

文/近藤隆夫

近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
『伝説のオリンピックランナー〝いだてん〟金栗四三』(汐文社)
『プロレスが死んだ日 ヒクソン・グレイシーVS髙田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル) この著者の記事一覧はこちら

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