2022年11月18日16時30分 / 提供:マイナビニュース
●憧れのクラブで優勝「あきらめずに夢を持ってやってきてよかった」
川崎フロンターレとのデッドヒートを制し、3シーズンぶり5度目の優勝を最終節で決めた横浜F・マリノスには歓喜の第2章が待っていた。2日後の7日に行われた年間表彰式「Jリーグアウォーズ」で、優秀選手賞に選出された5人全員が、初受賞となるベストイレブンに輝いたのだ。その一人、プロの一歩を踏み出したF・マリノスに復帰して3年目で、右ウイングとして群を抜く存在感を放ち続けたのがプロ15年目の水沼宏太だ。優勝を決めた瞬間から号泣していた理由や黎明期のマリノスでプレーしていた父・貴史さんを介したF・マリノスへの思い、そしてチームの未来像を32歳の闘将が熱く語った。
――優勝を決めたヴィッセル神戸との最終節。号泣していた姿が印象的でした。
勝手に涙が出てくるとはああいうものなのか、うれし涙とはああいうものなのか、という気持ちが、改めて振り返ってみるとすごく強いです。一気に泣いて、その後は切り替えて騒いでいました。
――いつぐらいから涙腺が決壊していたのでしょうか。
試合終了直前、2分前ぐらいです。最後まで気を抜いてはいけないし、みんなには申し訳ないと思っていましたけど。ピッチ上で最後まで戦い抜いている仲間。ベンチから試合に出ているメンバーのために声を出し続けている仲間。そしてベンチ外だけど神戸まで来てくれた仲間もいたし、何よりもゴール裏にたくさんのF・マリノスのサポーターのみなさんが来ている。ベンチからそうした光景を見て「やばい」と思った瞬間にはもう泣き始めていました。試合終了の笛が鳴った瞬間は「よっしゃー!」とピッチへ走っていきたかったんですけど、いろいろな感情が出てきてしまって。
――いろいろな感情のなかで、中心を占めていたものは何だったのでしょうか。
一度は外へ出たこのクラブ、そして昔からの憧れで大好きだったこのクラブでタイトルを取れた。これまであきらめずに夢を、目標を持ってやってきてよかったと改めて感じましたし、自分のなかでは想像もしてもいなかった未来が、自分で限界を作らずに頑張ればこうして訪れるのだとすごく感じた瞬間だったので。
――出場機会を求めてJ2の栃木SC、そしてJ1へ昇格したサガン鳥栖へ期限付きを繰り返しましたが、鳥栖での2年目だった13年に完全移籍へ切り替えました。
そのときは「絶対に帰りたくない、帰るものか」という思いだったし、そこからはF・マリノスに特別な意識はありませんでした。アウェイで行くたびに「かっこいいチームだな」とは思いましたけど、「いつか帰りたいな」とは思わなかったです。
――それが一転して、20年にセレッソ大阪から完全移籍で戻ってきました。
F・マリノスがリーグ優勝した19年のオフに、外から見ていて「やっぱりF・マリノスはすごい」と思っていたときにオファーをいただいて。最初に抱いた正直な気持ちは「何でいま僕なんだろう」でしたが、オファーをもらった事実を改めて考えると、自分のなかでこみ上げてきたのが「めちゃくちゃうれしい」という気持ちでした。昔からサッカー選手になるのならこのチームしかないと、F・マリノスだけを見て育ってきた少年時代だったので。自分のなかでは消していたかもしれないけど、そういう気持ちが心のどこかにあったんでしょうね。昔とは違って自分に対して自信を持った状態でオファーをもらえて、いまならば絶対できるという気持ちで帰ってきたところがあるので。
――その意味で、人生は面白いですよね。
正直、どうなるかわからない、という部分で本当に面白いと思います。じゃあ何ができるかといえば、いまをどれだけ全力でやれるか、自分の最大限の力を出して成長し続けられるか、というのがその人にできることだと思うので。そうした姿勢を続けていれば、縁がなかった景色といったものを見られると、今年は特に感じました。
●昨シーズンオフに改めて覚悟「今シーズンに悔しさをぶつけよう」
――ただ、昨シーズンは先発出場がわずか一度だけでした。一転して今シーズンは右ウイングのレギュラーとして大活躍を演じて、ベストイレブンに初めて選出されました。水沼選手のなかでターニングポイントのようなものはあったのでしょうか。
ターニングポイントというよりは、悔しい思いがすごくあって。正直、オフにいろいろと考えました。考える材料もたくさんあったなかで出た結論が、自分のなかでは一番のポイントだったのかなと。覚悟を決めてF・マリノスに戻ってきたときの気持ちを思い出したというか、いまの自分ならできると思って帰ってきたのに、まだみんなに見せてないじゃないか。ならば改めて覚悟を決めて、今シーズンにこの悔しさをぶつけよう、と。そういう気持ちを持ってプレーし続けられたのがすごく大きいですね。
――強い気持ちがユニフォームの背番号の下に入るネームの変更につながったのでしょうか。これまでの「KOTA」から、今シーズンは「MIZUNUMA」に変わりました。
残ると決めたときに、F・マリノスが30周年を迎えると知ったんです。そして、F・マリノスの歴史を振り返ると絶対に父がいる。横浜マリノスとしてJリーグの1年目を戦ったときに父がプレーしていて、30周年に自分がF・マリノスにいさせてもらっている。そうした縁を持つ自分がクラブに関わる人たちに何を残せるのかと考えたなかで、1年目にも30年目にも水沼という選手がいたと、歴史に名を残すのが僕にできることかなと思うようになりました。これまでは自分の名前で証明していきたい、自分の名前を知ってもらいたい、という思いで「KOTA」にしてきましたが、そんなことはもういいかなと。プロになって15年目でしたし、小さな頃から父と同じように、一緒に有名になりたいと夢見てきた気持ちもあったので。いろいろなタイミングが重なって、F・マリノスに残る覚悟を決めた、じゃあ「MIZUNUMA」で勝負しよう、という流れでした。
――横浜マリノスが2-1でヴェルディ川崎に逆転勝利した、93年5月15日の歴史的なJリーグの開幕戦を、国立競技場のスタンドで観戦していましたからね。
ほとんど覚えていないんですけど。当時は3歳で、一生懸命に旗を振っていた記憶や、光や音がすごかったというイメージはあります。だけど、僕の記憶のなかには観客席しかなくて、ピッチ上で何が行われていたのかはまったくわからなくて。
――その試合でマリノスの決勝点につながるシュートを放ったのが、お父さんの水沼貴史さんでした。優勝を決めてから連絡はあったのでしょうか。
「おめでとう」という話をしてもらいましたけど、それ以上は特に何か語り合ったことはないです。たぶん、言いたいこともたくさんあると思いますけど、本当によかったね、という気持ちを伝えてくれたのが自分としてはすごくうれしい。F・マリノスの節目で、かつ自分の覚悟を決めて臨んだ30周年で優勝できたのは本当によかったと思っています。
――お父さんは最終節で、F・マリノスと優勝を争った川崎フロンターレ戦の解説をされていました。
父は最終節だけでなく、そのひとつ前もフロンターレ戦の解説をしていて、どんな気持ちだったのかなと思ってしまいますけど。そこに関しては特に話していませんけど、とにかく僕に対しては「集中して頑張ってこい、楽しんでこい」という声は試合前にいつもかけてくれます。今回も同じように言ってくれました。
――次の30年へ、と見ている側はついつい思ってしまいます。水沼選手のお子さんは。
どうですかね。まだ2歳ですし、女の子なので。いまはまだそのようなことを考えられないと思いますし、でも相当なプレッシャーがあるはずなので、そうさせるのはちょっとかわいそうだなと。やりたいようにやらせてあげたいなと思いますけどね。たまに試合を観に来てくれると、F・マリノスの青いユニフォームを着ている僕に対して「パパ、今日はサッカー」みたいな感じで言ってくるんです。僕は青だという感じで認識しているんだなと思っています。
●「マツさんの魂はずっと残し続けたい」 2連覇やACLへの思いも語る
――話を今シーズンに戻して、ご自分のなかでベストと思っているプレーをひとつあげるとすれば何になるでしょうか。
僕のなかでは、清水エスパルス戦でレオ・セアラ選手のゴールをアシストしたパスが、今シーズンのプレーのなかで今年一番かなと思っています。レオ・セアラ選手の1点も3点目も、両方とも僕のなかではすごくいいアシストでしたね。ゴールもそうですけど、自分のイメージ通りにボールが入っていくとアシストはめちゃくちゃ気持ちがいい。その意味でエスパルス戦は確かに印象には残っています。
――レオ・セアラの1点目のアシストはしびれました。右サイドから相手選手の合間を縫う高速の低空クロスを、飛び込んできたレオ・セアラの左足にピタリと合わせましたからね。しかもF・マリノスの通算500勝を、1勝目をあげた国立競技場でマークしました。
あの試合は5-3で勝利しましたけど、今シーズンのF・マリノスを象徴していたと思っています。何点取られようが僕たちは何点でも取るんだ、という姿勢を示せた試合でもあったので。当時は連勝中で、最終的に6連勝まで伸ばしましたけど、改めて振り返ってみればあの連勝がF・マリノスにとってすごく大きかった。日本独特の蒸し暑い夏に差しかかったときにどれだけ勝ち点を伸ばせるか、と思っていたので。
――以前に「真夏の試合で大きな声を出すと倒れそうになる」とうかがいました。
その通りです。特に国立の清水戦はあまり風通りがよくなくて、蒸し暑くてピッチ上がモワッとしていたので「きつかった」という印象もあります。夏場は本当に倒れそうになりますが、自分が声かけることによって失点が防げるとか、点が入るといったことに繋がるのだったら、倒れても声を出し続けたいし、それが自分の特徴でもある。チームのためなら何でもしたいという気持ちが強いです。
――フォア・ザ・チームの気持ちは、33歳で迎える来シーズンにも。
それが自分らしさ、というのもあるし、それがなかったら自分のプレーに対して後悔すると思うので。2連覇への挑戦権を得たのは僕たちだけですし、もちろん2連覇は絶対にしたいところですけど、ひとつタイトルを取るとどんどんタイトルに対しての欲が出てくるんです。取れるタイトルは全部取りたいし、そのなかでACLもまだ僕らが取っていないタイトルなので、アジアのチャンピオンになる、アジアに自分たちのサッカーを見せつけることができれば。そのなかでチームのために戦い続けるのが自分らしさにつながるので、声を張りあげることを含めて、僕はやり続けます。
――F・マリノスは岡田武史監督に率いられた03、04年に連覇しています。
僕がF・マリノスのジュニアユースの2年と3年のときですね。あの頃はJリーグの試合を見にいく機会が多かったので、余計に自分が優勝したときはうれしかったです。
――当時のF・マリノスの主力で、2011年8月に急死された松田直樹さんの背番号「3」が記されたユニフォームを、優勝した後にファン・サポーターへ掲げていました。
チームが僕に渡してくれたんです。僕としては誰が掲げてもいいかなと思っていましたけど、キー坊(キャプテンの喜田拓也)が「宏太くんが持つことが大事だ」と言ってくれて、F・マリノスにはいまでもマツさんの魂がありますし、一緒にプレーした人が少なくなっているときに、マツさんってこういう人だったんだよっていうのを教えたいと思うし、それを体現できるのはもう僕しかいないので。簡単にできることじゃないですけど、似たようなことだったらもしかしたらできるかもしれない。マツさんがこういうことをやっていた、というのを伝えていきたい気持ちはあります。
――今シーズンだと、松田さんと一緒にプレーされたのは水沼さんだけでした。
僕しかいないですね。その意味でも、マツさんの魂はF・マリノスにずっと残し続けたい。F・マリノスを出て栃木へ行くときも、マツさんからは「お前は試合に出た方が絶対にいいよ」と言ってくれて。当時の僕はまだ若かったし、相談するどころか、話しかけるのも緊張するぐらいだったんですけど、確かにその言葉もあって決断しました。どこにでもマツさんは見に来てくれると思うし、きっと神戸にも来てくれていたと思うので。みんなが優勝を喜んでいる姿をマツさんに見てもらえていたらうれしいです。