旬のトピック、最新ニュースのマピオンニュース。地図の確認も。

タモリの柔軟性&適応能力によって長寿番組に 『笑っていいとも!』誕生40年・レジェンドD座談会<4>

2022年10月06日12時00分 / 提供:マイナビニュース

●タモリ・たけし・さんま・所の「観察眼」
今から40年前の1982年10月4日、31年半という長きにわたって日本のお昼に君臨し続けたフジテレビの公開バラエティ番組『森田一義アワー 笑っていいとも!』がスタートした。タモリの司会で、新宿・スタジオアルタから平日正午より毎日生放送。「~してくれるかな?」のコールがあれば、誰もが「いいともー!」と応えられるほど親しまれたが、なぜここまで国民的な番組となったのか。

そこで、番組初期のレジェンドディレクター3人が集結。立ち上げ時から務め、「テレフォンショッキング」に“ブッチャー小林”として出演もしていた小林豊氏。記念すべき初回放送を担当した永峰明氏。85年から90年まで担当し、「3代目いいとも青年隊」も務めた吉田正樹氏が、全5回シリーズで当時のエピソードや現場の熱気を振り返る。

第4回は、3人が目撃したタモリのすごさの話題から。長寿番組になった一番の要因は、その柔軟性・適応能力にあったという――。

○■「タモさんには断られたことがない」

――「外国人の皆さんを錬金術師のように面白くしていく」という話もありましたが、タモリさんのすごさというのは、他にどんなところがありますか?

永峰:とにかくまず全部受け入れるんですよね。受け入れて、ほーって観察しながら、自然にスーッと入っていくような。

小林:番組の企画をディレクターが考えて、タレントにどういう役割でどんなことをやってほしいって打ち合わせするんですけど、一般的なタレントさんは「それはないんじゃない?」「こういうやり方は好きじゃないな」とかいろいろ言われるんですよ。でも、タモさんには断られたことがない。必ず「へぇ、やってみよっか」って言って、受け入れるんですよ。そうなるのが分かると、ダメ元ではないのでむしろ責任感が出てくるんですよね。実際にやってダメだったケースはたくさんありましたけど、ディレクターが自分の食いついたところとタモさんが食いついたところが一致すると、番組ってポーンとハネるんですよね。

永峰:そういうのがあったよね。

小林:あと、やっぱり観察力がすごいので、その人の何が面白いのかというのがよく分かってるんですよ。こんなちっちゃい穴を突いたらお客さんが喜ぶというのを知ってる。(ビート)たけしさんにしても、(明石家)さんまちゃんにしても、所(ジョージ)にしても、そういう一線を走る人たちは観察眼がすごい。我々が通り過ぎちゃうところを、「この人はこんなところが面白い」「こういうことってよくあるよね」としっかり見ててツッコんでいくんですよ。

吉田:タモさんってご自分ではリハーサルしないから、ADがタモさんの役になって素人さんやゲストさんに質問を当ててみるんですよ。タモさんはその間、客席に座ってこっちを全然見てないんだけど、ADがリハでやった質問が良かったら、本番でちょっと使ってくれたりするんです。だから、見てないふりして全部見てるんですよ。

小林:タモさんは10時にアルタに入ってきて、ディレクターが客席にいると横にちょこんと座るんです。そこで、「タモさん、ここはこういうことなんだけどどうでしょう?」「ああ、いいんじゃない」って打ち合わせしてるんですけど、その間にADがタモさんになってリハーサルしているのを、実は見てるんですよね。「この質問、面白いな」って。

吉田:自分が言ったのをタモさんが使ってくれたときは、すごくうれしい。そうやって、みんなで番組を作る感や現場での喜びがありましたよね。
○■若いADも飲みに連れて行く“民主的な番組”

吉田:タモさんはよく飲みに連れて行ってくれました。僕はバラエティに来て最初の担当は『ひょうきん(オレたちひょうきん族)』だったんですけど、『ひょうきん』の人たちは女の子にしか興味ないので男のADなんて放ったらかしなんだけど、『いいとも』はタモさんが若いスタッフによくおごってくれたんですよ。20代のADなんて行っちゃいけないようなすごい席にお邪魔させてもらって『いいとも』ってすごく民主的な番組だったように思います(笑)

永峰:タモさんの好きな店に行くっていう感じだったよね。

小林:みんなよく連れていってくれたよね。そこにタレントさんがいたり、(放送)作家さんがいたりするんだけど、決して静かには飲んでいなかった(笑)。でも、『いいとも』をやってる頃には、もうタモさんの飲み方も落ち着いてたから。

永峰:たしかに、全裸になるっていうのはなかった(笑)

●SMAPらのレギュラー入りで次の段階へ

――タモリさんは3カ月で終わると思っていたという『笑っていいとも!』ですが、結果として31年半という長寿番組になりました。なぜここまで続いたのか、基礎を作られたお三方はどのように見ていますか?

小林:それは基礎の力でしょう! ウソウソ(笑)。やっぱりタモさんしかないでしょう。番組が長く続くとスタッフが変わっていくんだけど、やっぱり後輩は最初にやっていた連中の真似をするのが嫌なので、自分なりにしたいと思って変えようとするんですよ。そこで変わらずにいるタモさんは、ディレクターが新しいことをやろうとすると、さっき言ったように全部受け入れるんです。そういうのが新鮮なんだろうね。その新しいことがうまくハマって、非常に定着して続いてきたということだと思います。タモさんの雲のようにふわふわ浮いているようなキャラクターの魅力が、あれだけ続けられた力として大きいと思います。

永峰:具体的に言えば、我々の頃の前半は素人さんとか、お笑いの人が中心だったのが、SMAPなど新しいジャンルのメンバーが入って来たじゃないですか。

小林:荒井(昭博プロデューサー)が入れてね。

永峰:そこでタモさんが1つ興味を感じて、次の段階に行った感じが強いんじゃないかと思いますね。

吉田:おっしゃるとおりですね。初期の『いいとも』と見比べると、後期は芸能人の出る割合がものすごく増えてるんですよ。それはSMAPであり爆笑問題であり、もう少し前に僕らが入れたダウンタウン、ウッチャンナンチャンというところもあるけど、最初はタモさんと1曜日に芸能人1人くらいですよ。だから、番組がもっとのんびりしていたのかもしれないですね。タモさんが電話で問い合わせて疑問を解決する「それ聞いてみよう」っていうコーナーでNHKに電話したことがあって、10分くらいたらい回しにされるんだけど、その様子を延々と放送してたんですから。その後、NHKに「事前に言ってもらわないと!」って怒られましたけど(笑)

小林:よくスポンサーにも電話かけてたじゃない。営業からよく怒られたもん。

吉田:その復讐で、小林さんは後に営業に行かれるわけですよね(笑)

小林:それでか! まさか営業に行くとは思わなかったもん(笑)
○■「タモさんを飽きさせない」が初回からのテーマだった

小林:でもディレクターの立場からすると、視聴者が飽きちゃう番組は、やっぱり演者や僕ら作ってるほうも飽きちゃってるんですよ。『笑っていいとも!』に関しては、タモさんを飽きさせないというのが、初回からテーマとしてあったよね。それが、話題性や突発性を求めていった1つの理由かもしれない。

――コーナーもどんどん変わっていきましたよね。

小林:だから、コーナー用のセットなんて、本当に板一枚なんですよ。「もう新しいコーナーに変えるつもりじゃねえか!」みたいな(笑)。本当にコーナーを変えるのはみんな早かったですね。

吉田:タモさんの人生訓に「反省しない」っていうのがあるじゃないですか。だからスタッフも反省しないで、嫌なことはすぐ忘れていくから、どんどん変えていくんですよね(笑)。プロデューサーも何代もいますが、一番大変だったのは2代目プロデューサーの佐藤義和さんだったと思います。横澤(彪プロデューサー)さんという“創業社長”の後をやるのはやっぱり大変で、タモさんと毎晩飲みに行ったと言ってましたから。本当は自分が飲みたかっただけかもしれませんが(笑)、まあそれはご苦労されていたらしいです。一方のタモさんも不安で、横澤さんが現場を離れる送別会のときに、ちょっと酔っぱらって「いいよなあ、タケちゃんは自由で~」って、(ビート)たけしさんに言ってたそうで(笑)。そうやって、横澤さんの個性、佐藤さんの個性、荒井ちゃんの個性と続いて、その後もプロデューサーが代わっていって、うまく変えていったことも良かったんじゃないかなと思いますね。

小林:やっぱりタモさんは順応性が高いんだろうね。

吉田:僕は後に『トリビアの泉』をやることになるんですけど、タモさんは若いディレクターが大好きなんですよ。塩谷(亮)と木村(剛)を伊豆の別荘に呼んで、ヨットに乗せたりして。やっぱり、若い人から刺激を受けたり、教えたりしていましたね。

次回予告…今こそテレビにタモリ&横澤イズムを

●小林豊
1951年生まれ、静岡県出身。専修大学卒業後、74年に制作会社・フジポニーに入社。80年に制作部門を復活させるフジテレビジョンに転籍。『欽ドン!』シリーズや『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』『ライオンのいただきます』『所さんのただものではない!』などを担当し、92年営業局に異動。営業局長、スポーツ局長、取締役を経て、09年から19年までテレビ静岡社長を務めた。21年に旭日小綬章を受賞。

●永峰明
1954年生まれ、東京都出身。制作会社・フジポニーにアルバイトから入り、80年に制作部門を復活させたフジテレビジョンに転籍。『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『冗談画報』などを担当し、89年に退社。フリーの演出家として活動し、東京NSCの講師、『キングオブコント』の審査員も務める。13年からワタナベコメディスクールの講師を務め、同事務所のライブの監修を行い、芸人育成を担当している。

●吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などを制作し、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職、吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。

続きを読む ]

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

ネタ・コラムカテゴリのその他の記事

地図を探す

今すぐ地図を見る

地図サービス

コンテンツ

電話帳

マピオンニュース ページ上部へ戻る