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世界で4340万台売れた『ゲーム&ウオッチ』は「電卓遊び」が起源だった モンスターゲーム誕生秘話を生みの親・横井軍平の半生とともに解説

2018年10月17日11時45分 / 提供:ニコニコニュース



 今回ご紹介するのは、ゲーム夜話さんが投稿した『【横井軍平さん】任天堂入社~ゲーム&ウオッチまで-ゲームゆっくり解説【第41回前編-ゲーム夜話】』という動画です。

 全世界で4340万台という、前例のない大ヒットを記録した携帯ゲーム機『ゲーム&ウオッチ』。そのゲーム機が誕生した逸話や、生みの親である横井軍平さんが、それを開発するに至った経緯などが語られた動画がニコニコ動画に投稿されました。

 本記事では、そんなゲーム&ウオッチや横井軍平さんについて、博麗霊夢とピサロナイトがゆっくり音声を使用して詳しく解説した動画を、画像を交えて紹介します。
『ゲーム&ウオッチ』生みの親は自分を“落ちこぼれ”と語っていた
博麗霊夢:
 1941年、京都府京都市生まれ。四人兄弟の末っ子。父親は市内にある製薬会社の役員で、比較的裕福な家庭で育ったそうです。

 大学では電子工学を専攻しましたが、あまり勉学に熱心ではなかったようで、自分は“落ちこぼれ”だったと、横井さんは述懐しています。卒業を控え、大手家電メーカーに就職を希望するも、ことごとく不採用になり、1965年、とにかく地元の企業ならということで、ご本人いわく、半ばやけっぱちのような気持ちで、京都に本社を持つ任天堂に入社したそうです。

 そして入社後、暇つぶしで作っていた「ウルトラハンド」というおもちゃが、当時の山内溥(ひろし)社長の目にとまったことをきっかけに……。

 新設された開発課に配属され、その後『光線銃シリーズ』『ゲーム&ウオッチ』『ゲームボーイ』など、数々の大ヒット作を生み出し、任天堂を世界的企業に押し上げる、まさに原動力のひとりとして、長く活躍されました。

 横井さんが提唱した「枯れた技術の水平思考【※】」は、今も任天堂の経営哲学のひとつとして息づいているようです。

※枯れた技術の水平思考
“最先端ではないがすでに広く使われ、ノウハウも固まって、安定して使える技術”である「枯れた技術」と、“それを使って、今まで無かった使い道を考える”「水平思考」を合わせた経営哲学のこと。

子供の頃に作ったおもちゃがヒット商品に
ピサロナイト:
 横井さんは子供の頃から、日曜大工を発展させたような工作を趣味としていました。学校から帰ると、夜中になるまで“自分で楽しむ”ための玩具作りに励んでいたそうです。中学の時には、のちのヒット商品となる『ウルトラハンド』をすでに作っていたとのことです。

 横井さんが任天堂に入社して初めて任された仕事は、工場にある機械などのメンテナンスでした。暇に任せて社内でウルトラハンドを作っていたところ、山内社長に見つかり、叱られると思いきや“それを商品化せい”と、とんでもない話になった。それまでの横井さんは、あくまでも自分で楽しむために工作を行っていました。

 しかし、それを大量生産し、商品化するとなると話はまったく変わってきます。見よう見まねで設計書を作り、素材の指定から部品の調達、コスト管理に至るまで、利益を出すための商品作りが求められることになりました。当時の任天堂には、ものづくりにおける専門的な部門はなかったため、横井さんは製造に関する様々な工程を自分で行っていたようです。

 山内社長は、商品化するに当たり「任天堂はゲームメーカーなのだから、ウルトラハンドを“ゲームにしろ”という指示を下していました。

 その指示の真意は、当時の任天堂製のトランプなどには、ポーカーなどのルールが記された説明書が同梱されていたように、ゲームとして提供することで、ウルトラハンドの遊び方を子供たちに教えるという狙いがあったのだと思います。つまり、何をして遊ぶ玩具なのかということを、メーカー側が積極的にアピールすることによって、消費者が商品を購入するに至るまでの“明確な動機づけ”を付帯しているというわけです。

 ウルトラハンドは、140万個の大ヒットとなり、ほどなくして(他社の)偽物が大量に出回ることになりましたが、その偽物は腕利きの専門家が作ったもので、横井さんが作ったものよりも出来がよく、「かえって勉強になった」と横井さんは語っています。

『ゲーム&ウオッチ』発案のきっかけは「電卓で遊ぶサラリーマンを見かけたこと」
ピサロナイト:
 その後も、横井さんは『ラブテスター』『光線銃シリーズ』など、独創的なアイデアによる商品を次々と開発していきます。

 そして1980年、横井さん自身はもちろん、任天堂にとっても、ひいては日本のゲームの歴史においても、大きな運命の転換点が訪れます。

 国内で1287万台、世界で4340万台を売り上げた『ゲーム&ウオッチ』の発売です。ゲーム&ウオッチのアイデアは、横井さんが新幹線で、電卓で遊ぶサラリーマンを見かけたことがきっかけでした。電卓で遊ぶというのは、初めは意味がよくわからなかったのですが、当時は『電卓で遊ぶ本』というものが出版されていて、「12345679×9」という計算をすると、液晶に1の数字がずらりと並ぶ、といったものだったそうです。

 ただし、横井さん自身は『ゲーム&ウオッチ』のアイデアについて、それほどすごいアイデアだとは認識していなかったようです。

 そのアイデアが実現するに至ったのは、横井さんが昔から車好きで、中古の左ハンドルの外車を運転していたことに起因していました。ある日、山内社長の運転手が体調不良で休んでしまいました。しかし、会合があったため、どうしても出かけなくてはなりません。社長の車は左ハンドル。そこで、横井さんが一日だけ、運転手を任されることになりました。

 当時、横井さんは開発課課長であり、プライドがあったため、あくまでも自分の本分である開発課に関わる仕事の話をしようと思い、小さな電卓風のゲーム機のアイデアを社長に語りました。しかし、社長はさほど興味を持っている様子でもなかったそうです。
偶然が重なって商品化が実現
 ところが、その後の会合で、たまたま隣の席にシャープの社長が座っており、山内社長は、今しがた聞いたばかりの横井さんのアイデアを話しました。折しも当時シャープは、電卓をめぐって小型軽量化や低価格の実現といった、熾烈な開発競争を、カシオと繰り広げていました。

 そして一週間後、シャープの幹部らが任天堂を訪れ、事の顛末を知らない横井さんは訳が分からないでいると、山内社長は「君が言っていた電卓サイズのゲーム機なら、シャープが得意だから呼んだんだ」と言ったそうです。そして、アイデアは実現化へ向けて動き出します。

 「元々大したアイデアだとは思っていなかった。運転手が休んだ。社長の車が左ハンドルだった。私にもプライドがあった。偶然シャープの社長が隣にいた。どれひとつ欠けていても、ゲーム&ウオッチのアイデアはどこかで消えていただろう」と、横井さんは述懐しています。

 当時、任天堂は、70~80億の負債を抱えていたそうですが、ゲーム&ウオッチの成功により、40億円の預金を作ることができました。そして後に、山内社長は、その預金を『ファミリーコンピュータ』の開発に丸ごと投資することを決断したのです。
「私は決して天才なんかじゃありません」
 初めは「安穏と定年まで勤めらえればいい」と考え、自分を落ちこぼれだと思っていた青年は、やがて自らの仕事にプライドを持つようになり、そのプライドをきっかけのひとつとしてゲーム&ウオッチが作られ、それは会社を救っただけでなく、ファミコンの誕生にも繋がっていくことになりました。

 「私は決して天才なんかじゃありません。私はどこにでもいる普通の人。発明好きのただのおじさんだって、人様から認められる仕事を成し遂げられる。だから人生は面白い」と、横井さんは言いました。

 いかがでしたでしょうか。

 自分は落ちこぼれだと思っていた青年が、会社を救い、そして今の任天堂の在り方を形成した。様々な偶然が重なって生まれた『ゲーム&ウオッチ』の伝説や、横井軍平さんの生き様について、さらに詳しく知りたい方は、ぜひ下記動画をご覧になってください。

【横井軍平さん】任天堂入社~ゲーム&ウオッチまで-ゲームゆっくり解説【第41回前編-ゲーム夜話】



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