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『ザ・ノンフィクション』は“人の心”を描いてきた――放送1,000回、歴代CPが捉えた時代の変化

2021年04月11日06時00分 / 提供:マイナビニュース

東日本大震災で「世の中が変わった」
1995年10月にスタートしたフジテレビのドキュメンタリー番組『ザ・ノンフィクション』(毎週日曜14:00~ ※関東ローカル)が、18日の放送で1,000回を迎える。これを記念して、11日・18日の2週にわたって、番組の歴史を振り返りながら、「『ザ・ノンフィクション』は何を描いてきたのか?」を検証する「放送1000回SP」が放送される。ナレーションは、歴代最多の34回を担当してきた女優の宮崎あおいだ。

そこで、2003年から12年にわたり4代目チーフプロデューサーを務めた味谷和哉氏と、19年からチーフプロデューサーを務めている6代目の西村陽次郎氏が対談。26年という歴史の中での番組作りの変化や、象徴であるテーマ曲「サンサーラ」誕生秘話、さらにはバラエティ番組でパロディされることの受け止め方などについて、たっぷりと語ってもらった――。

○■平成不況…地べたを這いつくばって生きてる人を追う

――『ザ・ノンフィクション』という番組は、どのように立ち上がったのでしょうか?

味谷:当時、サラリーマンのお父さんが家族と一緒に見られる番組がないということで、編成の重村(一、現・ニッポン放送相談役)さんが、情報番組などを担当する太田(英昭、現・産経新聞社顧問)さんに「日曜の午後にドキュメンタリー番組を作ってくれ」と指示して始まったと聞いています。第1回の野茂英雄さん(『すべてはあの一球から野茂英雄2982球の真実』95年10月15日放送)、第2回のオウム真理教(『特別企画 オウム真理教4人の幹部と私たちの戦後50年』同22日放送)は、全部太田さんが準備したんです。だから、重村さんと太田さんが、最初に“井戸を掘った”人なんですよ。

西村:当時の新番組資料にも「お父さんが娘に『一緒に見ないか?』と言えるノンフィクション・エンタテイメントです」と書いてあって、海外紀行や潜入取材ルポ、スポーツドキュメント、海外ドキュメンタリーといったもので始まったんですが、時は平成大不況真っ只中で、山一證券が廃業(97年)した頃から、取り上げるテーマが今の「市井の人々を取り上げる」という形に定着していったんです。その頃は、ダンボールや空き缶や新聞古紙を回収して生活しているような、地べたを這いつくばって生きてる方を取り上げるものが多かったんですね。『借金地獄物語』(97年9月21日放送)という作品は15.9%(世帯、ビデオリサーチ調べ・関東地区)という歴代最高視聴率を取るんですが、2003年に味谷さんがCP(チーフプロデューサー)になってからは、そこにヒューマンドキュメントの要素が加わるんです。

味谷:「愛と人情」とよく言ってましたからね(笑)。それまでは男性目線の番組だったんですけど、少し女性目線で「家族を描く」ということもやってみたら、わりと数字が安定してきたんです。

西村:ちょうどITバブルもあって時代が変わり、社会が違う方向に動き出したので、それは当然の流れだったかもしれないですね。

○■コロナ禍で「新しい価値観」に需要

――味谷さんは2015年まで、歴代最長の12年にわたってCPを担当されました。

味谷:でも、最後のほうは数字が取れなかったんです。10年やってると社会と若干ズレるんでしょうね。特に大きかったのは、2011年の東日本大震災で、あの頃から同じことをやっても結果が出なくなってしまった。やはり、人々が「現実はもうたくさんだ」となってしまったんだと思います。あの震災でドキュメンタリーとして何かやらなきゃと思って、1カ月後に『わすれない 三つの家族の肖像』(11年4月17日放送)というのを企画したんです。みんな一致団結してやってくれて、賞もたくさん頂いたんですが、視聴者はどんどん離れていく。世の中が変わったことに気づかず、追いつけない自分がいて、あの頃はつらかったですね。そのあたりを当時冷静に見ていたのが、西村くんですよ。

西村:見てましたね。あの頃の味谷さんは本当に苦労されていたと思います。震災が起きて、みんな自分の生き方を考えたと思うんです。「会社で仕事ばかりしてていいのか」とか思うようになって、自分の人生の優先順位がおそらく変わり始めたんですよ。そこで、『ザ・ノンフィクション』で何が起きたかと言うと、自分らしさを追求する人に密着するテーマが多くなってきたんです。象徴的なのは、ニートのカリスマ・phaさんを追った『お金がなくても楽しく暮らす方法』(14年7月13日放送)で、あのとき味谷さんは「これは絶対数字を取らない」と言ってたんですけど、結果すごく取ったんですよね。

味谷:そうそう。自分の中で、「数字が取れるもの」と「数字が取れなくても発信する意味があるもの」とテーマを分けているんですが、数字が取れないと思ってたものが取ってしまったんですよ。

――そしてここに来てコロナという、より自分の生き方を考える時代になりました。

西村:これは震災のとき以上の影響ですよね。都会に住む意味がなくなってくるとか、大きな価値観の変化が起きたときに、多くの人が迷ってると思うんです。すると、他の人のやり方とか人生が気になってきて、そこにヒントがあるかもしれないから、今ドキュメンタリーの需要が高まっている背景があると思います。最近で言うと、モバイルハウスで暮らす若者たち(『ボクのおうちに来ませんか ~モバイルハウスで見る夢~』20年12月6日放送)とか、リヤカーでシフォンケーキを売る夫婦(『シフォンケーキを売るふたり ~リヤカーを引く夫と妻の10年~』21年1月17日放送)とか、F1・M1(男女20~34歳)の数字がすごく高いんです。物語として何も起きないんですけど、そこに新しい価値観があるからウケているんだと思います。

――有名人やその道のプロではなく、「市井の人」を追っているからこそ、より時代を映し出す番組になっていると思います。

西村:そうですね。今回1,000回のラインナップを見て、本当に“時代を映す鏡”だなと思いました。当初は迷走していましたが、ずっと変わらないのはとにかく“人の心”を描いてるんです。

サンサーラは「死んでゆく~」と続いていた

――『ザ・ノンフィクション』といえばテーマ曲の「サンサーラ」ですが、これは味谷さんの原案だと聞きました。

味谷:私がADのときに、榎木孝明さんがガンジス川の源流に行くという番組のロケハンで初めてインドに行ったんですよ。それで機嫌よくカレー食べたら当たってしまい、全部戻して下痢も止まらなくて、1週間で5~7キロ痩せちゃって。車で源流まで行くんですけど、飯も食えない、夜も目が冴えて寝れない状態で朝方、吊り橋に行ったら、ガンジス川がものすごい勢いで流れていて! そのとき、「♪生きてる 生きている~その現(うつつ)だけがここにある」というメロディーと歌詞が、頭の中で同時に流れたんですよ。しかも原曲では、そのあとが「死んでゆく 死んでゆく~その真実(まこと)だけがここにある」と続くんです。

――「死んでゆく」ですか!?

味谷:そうそう(笑)。でも、ちゃんとした曲にするとき、「『死んでゆく』はマズいですよ」となって、「生きてる 生きている」だけが残ったんです。

――最初に思いついてからCPになるまで、ずっと温めてたんですね。

味谷:92年の7月にできて、家でずっと歌ってたんですけど、それを子供がずっと聴いてたんですね。その後、2003年の10月にCPになるとき、「今度『ザ・ノンフィクション』やるから」って言ったら、高校生になった娘に「私が聴いてきた『サンサーラ』はドキュメンタリーにぴったり合うから、あれをテーマ曲にしたほうがいいよ」と言われたんです。「その現(うつつ)だけが ここにある」だし、合うなあと思って。だから私より、娘のプロデュース力のほうが優秀なんです(笑)
○■バラエティ番組でパロディされることに対して…

――この「サンサーラ」を象徴として、今や『ザ・ノンフィクション』は局の垣根を越えてバラエティでパロディ的に扱われたり、『アメトーーク!』(テレビ朝日)では「ザ・ノンフィクション芸人」という企画が放送されたりと様々な形で取り上げられていますが、本家としてはどのように捉えていますか?

西村:テレビ番組である以上、話題になることは本当に良いことだと思います。僕もいろんな番組を作ってきましたが、どんなに中身が良くても知られないと終わっちゃうし、人に見てもらえないですから。だから、こうしてバラエティで「サンサーラ」がいっぱいかかったり、『アメトーーク!』でやってもらったりすると、今まで見てもらえなかった人にリーチしていくことになるので、すごくありがたいですね。そしてそれを見て、『ザ・ノンフィクション』に目を向けてくれたときに、ちゃんとした作品を放送すれば、輪が広がっていくと思うので。そこは引き続ききちんと作っていくことが大事だと思います。

味谷:「サンサーラ」が最初にバラエティで使われたのは、『月曜から夜ふかし』(日本テレビ)の桐谷さんじゃないですか? あれで「何この曲?」となって、イジりにも使えるんだとなったのは、一種の発明ですよね。でも、僕がやっていた頃にも、第二制作(フジテレビのバラエティ制作部署)のディレクターとかADから「芸人さんが見たいと言うので、ビデオ貸してくれませんか」とよく頼まれましたから。

――関東ローカルの番組を元ネタとして、ここまで波及するのは、なかなかないことだと思います。

西村:今はネットもあるし、SNSもあるから、もはや関東ローカルの域を超えている部分もありますよね。「細かすぎて伝わらないモノマネ」でもやってもらいましたし、やっぱり26年続けていただいたことで、世の中に浸透しているんだと思います。

●スタジオ中を引き込んだ18歳の宮崎あおい

――「語り」に、プロのナレーターやアナウンサーではなく、ナレーション経験の少ない女優や俳優を起用するというのも、『ザ・ノンフィクション』の特色ですよね。

味谷:たぶん、僕が宮崎あおいさんを起用したときからだと思います。それまでも、名前の通った女優さんに読んでもらうことはあったんですが、視聴者目線で読むことで一緒に考えてもらうというのが良いだろうと思って、『ピュアにダンス 僕たちのステージ』(04年5月9日放送)で宮崎さんにお願いしたんです。現場としては別のベテラン女優さんで決まっていたんですが、私がとても信頼していた当時の宮崎さんのマネージャーに、「君が今、若い女優で一番これから来ると思ってる、しかも伝える力があるのは誰になる?」と聞いたら、「宮崎あおいです」と18歳の彼女を連れてきて。当時は全然売れてなくて、周りのスタッフは「なんでこんな女の子に読ませるんですか?」と言ってたんですけど、いざ読み始めたらみんなシーンとしたんですよ。

―― 一気に引き込まれてしまったんですね。

味谷:もうみんな納得して「いけるね!」と。そこから若い女優さんにもどんどん読んでもらうようになりましたよね。そうすると、今まで読んでいたアナウンサーたちも刺激を受けて、いわゆるアナウンサー読みじゃなくて、時に寄り添い、時に突き放すというようなドキュメンタリーの読み方をしてくれるようになったんです。高島彩、藤村さおり、佐々木恭子、梅津弥英子、武田祐子とか、優秀でみんなうまいんですよ。良い相乗効果が出て、今やNHKでも若い女優さんに読ませるようになりましたもんね。これも、『ザ・ノンフィクション』で確立したという感じがしますし、宮崎あおいさんの功績だと思います。
○■1,000回の歴史を解釈して番組を検証

――今回の「放送1000回SP」は、どのように制作していったのですか?

西村:3カ月前から今回のチームを立ち上げて、いろいろ企画を考えていたんですが、ただの振り返りダイジェスト番組では面白くないし、視聴者も関心が持てないだろうから、「『ザ・ノンフィクション』という番組を検証するドキュメンタリー番組を作ろう」というのをまず考えたんです。つまり、これも1つのドキュメンタリー番組にするということ。それによって、1,000回という歴史を解釈していく中で、この時代はこういう傾向だったとか、あの時はああいうことが起きたからこんなジャンルが多いんだとか、そういう流れから話題作や名作と言われるもの、時代を象徴しているものをピックアップしていきました。

――それを1,000回から選ぶのは大変ですよね。

西村:そうなると、味谷さんのやった『花嫁のれん物語』とか『平成の金の卵たち』とか、入れたくても入れられなかったものがたくさんあるんです。その上で、今回は物語ではないので、一番担当回数の多い宮崎あおいさんのナレーションと僕らの構成・編集でつないでいくという作業ですね。視聴者の皆さんがどうリアクションしてくださるか分かりませんが、僕らにとってもここで改めて整理しておくべきだという考えで作っています。

味谷:うまくまとめてくれたと思います。改めて、社会をすごく反映している番組だなと感じますね。

味谷和哉1957年、大阪府生まれ。読売新聞大阪本社社会部記者を経て、92年にフジテレビジョン入社。以来ドキュメンタリー畑一筋で、ディレクター・プロデューサーとして制作に携った作品は450本超。03~15年に『ザ・ノンフィクション』のチーフプロデューサーを務め、17年からフジキャリアデザイン執行役員営業企画部長。

西村陽次郎1974年生まれ。青山学院大学卒業後、富士銀行を経て、99年にフジテレビジョン入社。ドキュメンタリー、情報番組などを担当し、19年より『ザ・ノンフィクション』チーフプロデューサー。現在はほかに、『逮捕の瞬間!警察24時』『目撃!超逆転スクープ』や、『ワイドナショー』『まつもtoなかい』といったバラエティ番組も手がける。

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