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指揮官・長嶋茂雄は、データと観察に基づくアドリブを併せ持つ /元読売巨人軍・チーフスコアラー・三井康浩

2021年01月03日19時00分 / 提供:マイナビニュース

選手、スコアラー、査定担当、編成担当といったさまざまな役割を務めながら、読売巨人軍で40年間を過ごした三井康浩氏。スコアラー人生の集大成となったWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では、日本代表を支え優勝に導いたことでも知られる。その三井氏が頭角を現すうえで大きなきっかけとなったのが、長嶋茂雄氏との出会いだった。

1993年から2001年にかけての「第二次政権」と呼ばれる期間、間近で見た指揮官・長嶋茂雄の真の姿を聞いた。
○■「10・8」での働きが長嶋監督に買われ、球界初のベンチ入りスコアラーに

三井氏がプロ野球選手として巨人軍の一員となり、その世界に足を踏み入れた1979年。巨人の監督を務めていたのはミスタージャイアンツこと長嶋茂雄だった。翌年に長嶋氏が監督を退任したこともあり、「監督と選手」という関係での交流は限られたものに終わったが、12年のときを経て再会の機会が訪れる。長嶋氏が二度目となる監督就任を果たした1993年、三井氏はスコアラーに転身していた。

――選手だった頃、最初に長嶋さんと話をしたときの記憶はありますか?
三井 1年目のシーズンがはじまる前、巨人が練習に使っていた多摩川グラウンドでの合同自主トレで、バッティングをほめてもらったんですよ。わたしは関西出身だったので当時はいわゆる「長嶋信者」ではありませんでしたが、オーラを漂わせた長嶋さんにほめられたときは心底うれしかった。ただ、その後すぐに外野で別の練習をしているとき、「ところで君は誰だ?」と聞かれて、「覚えてもらえてはいないんだな…」と(苦笑)。

――本格的にコミュニケーションをとることになったのは、三井さんがスコアラーになり、長嶋第二次政権がはじまった1993年からということですね。
三井 そうです。わたしは選手を引退し、その後7年間にわたりスコアラーとして経験を積み、独り立ちしかけていた頃です。そんなときに長嶋さんが再び監督としてやってきて、かかわりを持つようになりました。

長嶋さんが監督に戻り2年目の1994年のシーズンに「10・8」で知られる中日との優勝決定戦を制してリーグ優勝したのですが、そのときの仕事を評価してもらい、わたしは試合中ベンチに入りチームに情報提供を行うという、当時の球界ではまだどのチームもやっていなかった役割をまかせてもらうようになりました。その後、ベンチで采配を振るう長嶋さんを2001年に退任するまでの7年間サポートをしました。

――スタッフに対し、当時の長嶋監督はどんなかかわり方をしていたのでしょう?
三井 長嶋さんは、スタッフのことを「先生」って呼ぶんですよ。なぜだかはわかりませんが、萎縮させないための工夫だったのかもしれませんね。そこから距離が縮まると「三井君」と君付けになる。さらに縮まると「三井」と呼び捨てに。そして、もっと縮まるとあだ名がつくのですが、スコアラーのあいだでは「あだ名をつけられたら長嶋さんの右腕だよ」といわれていました。

わたしも数年かかりましたが、「とっちゃんぼうや」というあだ名を頂戴しました。命名の理由はよくわかりません。子どもっぽく見えたのでしょうか(苦笑)。
○■監督のもとにあった豊富なデータ。それに負けない分析が必要だった

監督時代は、「采配が直感的」だと揶揄する報道などもあった長嶋氏。だが、スコアラーとして指揮官を支えた三井氏は、「それだけではない。データを大切にし、周囲の意見に耳を傾けることを欠かさない一面もあった」と話す。

――スコアラーから見る長嶋監督はどんな監督でしたか?
三井 これは皆さんの印象とはちがうかもしれませんが、じつは長嶋さんは、データへの関心が非常に高い監督でした。スコアラーが集めるものとは別に、球団に準備させたと思しきデータをいろいろと持っていて、それを使いながら話をすることもあったくらいです。

投手と打者間の詳細な対戦成績や、走者の一塁から二塁までの到達時間のような、当時はまだ入手するのが難しかった数字を気にしていて、自分たちの調べが足りないと「そんなことも知らないのか!」と怒られたものです。だから、監督室であってもベンチであっても、長嶋さんと話すときは「万全の準備をしなければ」といつも緊張していたのを覚えています。

――その話を聞くと、長嶋監督が「ベンチにスコアラーを置く」という手法を導入したのも納得がいきます。
三井 試合中も、監督が重視しているデータを使ってプランが立てられるスタッフがほしいと思ったのかもしれません。わたしがベンチに入ったことで、スコアラーという役割が日の目を浴びるようになったのは間違いないので、本当に感謝しています。

ただ、準備段階ではデータを重んじた長嶋さんですが、試合がはじまるとそれにとらわれない采配を見せることもありました。相手の様子を観察して、ミーティングで決めたのとはちがうタイミングで作戦を仕掛けたりするのです。それは相手が無警戒であることを察知したうえでの判断であることもあり、うまくいったケースも数え切れないくらいあった。ただ、定石を無視したものになることもあったので、そこだけ切り取ると「ひらめき」や「勘ピューター」といわれてしまうのもわからなくはありません。

わたしも試合中にスクイズをかけるタイミングを聞かれ、相手投手の持っている球種や攻め方を必死に考えて答えたのに、全然ちがうタイミングでサインを出すので驚いたことがあります。ただ、一番近くで采配を振るう長嶋さんを見てきた立場からいわせてもらうと、長嶋さんは基本的に細かなデータをもとにいろいろな人に意見を求めながら作戦を立てる監督でした。

ただ一方で、それに固執せず試合をよく観察して思いきった手を打っていくこともできた。そんな、ふたつのスタイルを併せ持った監督だったと思っています。それができたのは、現役時代からを踏まえた勝負師としてのもの凄い経験があったからでしょう。

――データを大事にしつつも、それだけにとらわれないバランス感覚があった。
三井 ベンチでの長嶋さんのふるまいでよく覚えているのが、試合の中盤から終盤にかけて「そろそろ、動くよー」という声がけです。これはいわば、試合の勝負どころを見極めて作戦を繰り出していく号令のようなもの。

基本的には試合の前半はわたしたちスコアラーが立てたプランを下敷きにして戦い、その後、試合で得た情報を使ってベンチは動いていくのですが、長嶋さんの号令は、そのギアチェンジを伝えるようなものだった気がします。

――長嶋監督のときに「直感」と呼ばれることもあった判断は、観察に基づくものだったということでしょうか?
三井 そう思います。長嶋さんは投手の交代なども投手コーチにまかせず自分で決断していましたが、球威の低下や変化球の制球の悪化などには敏感で的確でしたしね。「よく試合を見ている」と思わされましたし、やはり凄い人です。

巨人軍の理想を、本気で貫こうとしていた人

長嶋監督と延べ9シーズンを戦った三井氏が、長嶋監督の信念をうかがい知ることになった機会として挙げるのが、1998年に外国人投手のバルビーノ・ガルベスが、判定に激昂し審判団に向かってボールを投げつけた事件だ。

――長嶋監督が感情をあらわにしたり、なにかに苦しんだりしている姿を目にしたことはありましたか?
三井 長嶋さんは、コーチや選手を直接強く叱ることはしない個々のプライドを尊重する人でした。その代わりにスコアラーが叱られる……(苦笑)。「おい、三井!」と叱る声をベンチに響かせることで、選手たちに注意を促していたのでしょう。

つらそうに見えていたことといえば、主審の判定に納得がいかなかったピッチャーのガルベスが怒り、降板時に審判団に向かってボールを投げつけた事件です。ご記憶の方も多いと思いますが、長嶋さんはガルベスに出場停止処分が下された後、頭を丸刈りにして謝罪の意を示しました。

――ガルベスのとった行動、長嶋監督の対応、両方に驚かされました。
三井 長嶋さんは、自分がファンの目にどう映るかを常に気にしていた人です。服装も、髪型も、常にビシッときめていましたからね。年齢を重ねてからも、若々しく元気に見えるための工夫を欠かしませんでした。そういう姿を見てきたわたしたちにとって、「丸坊主」というのはファンの皆さん以上に衝撃的だった。

同時に、長嶋さんが本当に心を痛めていることも伝わってきました。長嶋さんという人は、紳士的に正しく戦うという巨人軍の理想を、本気で貫こうとしている人なのだなと思いました。その姿を目にして身が引き締まり、わたしのなかにも巨人軍の一員であることの誇りが改めて芽生えたのを覚えています。

――逆に、喜びを爆発させている姿を見たことはありましたか?
三井 やはり2000年のリーグ優勝ですかね。0対4と中日にリードを許して迎えた9回裏。そのシーズンから巨人に加わった江藤智が満塁ホームランを打って同点に追いつき、さらに次打者の二岡智宏にも一発が出て、サヨナラ勝ちでの優勝決定。ファンに喜んでもらえる劇的な試合が大好きだった長嶋さんは、インタビューに「やっぱり、野球は生きている」と答えて喜んでいましたよ。あんな姿は見たことがありません。

あと、笑顔の長嶋さんを思い出すのは、2009年のWBC優勝。わたしはWBC日本代表チームにチーフスコアラーとして加わったのですが、帰国後に「本当によくやった、三井!」と手放しでほめていただいた。とくに、準決勝でアメリカ代表に打ち勝ったことを評価してくれました。長嶋さんの現役時代は、日本のプロ野球とメジャーリーグのあいだに昨今のような交流はありませんでしたが、ベースボールの祖国であるアメリカに対する対抗意識はあったのでしょう。

――偉大な人との交流は誰にでもできるものではありません。長嶋茂雄という野球界のスーパースターとのかかわりで得たものは大きかったのでは?
三井 当時の巨人には「ONの顔に泥は塗れない」という共通の思いがチームの根幹にあり、それでチームがまとまっていました。もちろん、いまでもそれは生きていると思います。そんな神様のような人と毎日のように話をさせてもらったわけですから、そのやりとりは本当に得難いものでした。

周囲からも「おまえは長嶋さんとたくさん話せていいなあ」とよくうらやましがられましたよ。ですが、それ以上にその背中から教えてもらったものも多かった。野球と向かい合う姿勢、チームを鼓舞する術、ファンに対する感謝の心、スタッフへの気づかい…。

その後、わたしがスコアラーとして生きていくための様々なヒントを、長嶋さんのそばにいさせてもらった時間から学びました。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人

三井康浩 みついやすひろ 1961年、島根県に生まれる。出雲西高校時代に強打で鳴らし、1978年のドラフト外で読売巨人軍に入団。同期には、江川卓氏や鹿取義隆氏らがいる。腎臓疾患を患い、1984年に現役を引退。引退後は、二軍マネージャーを経て、スコアラー、査定室長、統括ディレクター、編成本部参与などを歴任。入団から退団まで、40年間にわたり巨人軍を支え続けた。2009年のWBC第2回大会(ワールド・ベースボール・クラシック)では、日本代表チームのチーフスコアラーという大役を務め、世界一に貢献した。2020年2月に著書『ザ・スコアラー』(KADOKAWA)を上梓。
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