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何度も危機を乗り越えてきた"150年のDNA"

2019年12月26日11時23分 / 提供:マイナビニュース

●反射炉建設にみる日本人のモノづくりの精神
本連載で見てきたように、日本経済は長期の厳しい時代を経て、いま本格復活に向けて動き出しています。

平成時代の日本経済はバブル崩壊によって経済低迷に陥り、金融機関の経営破綻、リーマン・ショック、東日本大震災など未曽有の危機に何度も見舞われました。その結果、日本経済は深刻な打撃を受け、力がどんどん弱っていきました。しかし、その中にあっても多くの企業や関係者が危機を乗り越える努力を懸命に続けた結果、本連載で見てきたような新しい変化、本格復活に向けた可能性をつかみ始めているのです。これこそが、令和の時代に日本経済を本格復活させる原動力になるものです。

振り返れば、日本という国は明治以来、何度も危機に直面し、時には大きな犠牲を払いながらも、それを乗り越えてきました。いや、単に乗り越えただけではなく、それによってむしろ強くなってきたという歴史を持っています。別の表現を使うなら、ピンチをチャンスに変えてきた歴史と言えます。
○植民地化の危機に直面した幕末、薩長藩などが自力で近代化に挑戦

それはまず、150年余り前の1800年代にさかのぼります。1853年のペリー来航は、日本が植民地化の危機に立たされていることを白日の下にさらしました。徳川幕府が鎖国を続けていた間に欧米列強は続々とアジアに進出し、英国はアヘン戦争によって香港を植民地として獲得し、上海なども半ば植民地化しました。日本近海には外国船が頻繁に出没するようになっていました。

当時の薩摩、長州、佐賀などの西南雄藩はそうした欧米列強の動きに危機感を強め、軍備で彼らに対抗するため反射炉建設に乗り出しました。反射炉とは、耐火煉瓦で作った炉の内部で原料の銑鉄を高温で溶かし、鋳型に流し込んで大砲を製造する設備で、当時のヨーロッパの最先端技術でした。ちょうどオランダ人が長崎に持ち込んだ「鉄製大砲製造法」の本を日本の蘭学者が翻訳し、その本を頼りに各藩のサムライたちは建設に着手しました。

しかし、当時の日本ではもちろん誰も反射炉など作ったこともなければ見たこともない。詳細な設計図もないし、教えてくれる人もいない。そんな状況の中でサムライたちは試行錯誤を繰り返し、ついに反射炉を完成させ大砲製造に成功したのです。

その過程では挫折しかけたこともありました。佐賀藩では当初はうまくいかなかったため、反射炉建設の責任者を命じられていた藩士が切腹を申し出たという壮絶な話も残っています。しかし、藩主がそれを押しとどめ、最終的に反射炉完成と大砲製造にこぎつけたのでした。それらはすべて自力です。しかも、驚くべきことに、佐賀藩が反射炉を完成させ大砲製造に成功したのは、ペリー来航前なのです。薩摩藩もペリー来航前から着手していました(完成はペリー来航後でしたが、すべて自力という点では佐賀藩と同じです)。

ここでもう一つ重要なのは、単なる西洋技術の導入、モノマネではなかったことです。当時の日本には、反射炉の建設に不可欠な煉瓦の技術がまだありませんでした。これがネックとなって、何度も失敗を重ねることになったのですが、佐賀藩は有田焼、薩摩藩は薩摩焼など、地元の焼物職人を動員して、その技術を応用し、成功に導いたのでした。単に西洋の技術を輸入するだけでなく、日本在来の高い技術を活用して融合させるという工夫をしたわけです。

反射炉は、鳥取藩、水戸藩、さらには幕府も建設しました。幕府の反射炉は、ペリー来航直後に伊豆・韮山(現在の静岡県伊豆の国市)に建設したもので、ほぼ完全な形で現存しています。

また有力各藩や幕府は造船所を造り、自力で軍艦の建造に乗り出します。木造帆船の大型化から始め、続いて蒸気機関も自前で製造して船の動力として鉄製大砲も搭載、最終的には鉄製軍艦の建造へとレベルアップしていきました。
○世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に見る"150年のDNA"

こうして幕末の反射炉は明治以降の鉄鋼業、同じく軍艦建造は造船業の基礎となり、それぞれ近代化の柱となりました。

幕末に日本にやってきたオランダ人の海軍将校が、薩摩藩が建造した日本初の蒸気船を見て「一度も実際に蒸気機関を見たこともなくして、ただ簡単な図面を頼りに、この種の機関を造った人の才能の非凡さに驚かざるを得ない」と書き残しています(カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』水田信利訳、平凡社東洋文庫)。

ここに、当時の日本人たちが植民地化の危機を乗り越えるために持てる力を結集して必死に努力し続けた様子がよく表れています。このパワーが、倒幕と明治維新の原動力となったのです。そして明治新政府は短期間に近代化を成し遂げ、日本は世界有数の経済大国に成長しました。まさにピンチをチャンスに変えたのです。これこそが、日本の近代化の原点であり、今日に受け継がれている"DNA"なのです。私はこれを"150年のDNA"と名づけています。

これら幕末から明治期の産業発展の跡を示す遺跡が全国に残っており、そのうちの23の産業遺産が「明治日本の産業革命遺産」として、2015年に世界遺産に登録されました。詳しくは拙著『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦!技術立国ニッポンはここから始まった』(集英社)をご参照いただければと思いますが、同遺産を見て回ると、当時の人たちの努力と挑戦の跡を感じることができ、元気づけられます。

○戦後10年でスピード復興、高度経済成長へ

その後、日本は世界の大国の仲間入りを果たしましたが、戦争ですべてを失いました。300万人もの日本国民が犠牲となり、原爆が落とされた広島長崎をはじめ、東京大阪など日本中のほとんどの都市は焼け野原となりました。経済も壊滅状態で、まさに存亡の危機でした。そのうえ終戦後も食糧難と物資不足、ハイパーインフレなど危機が続きました。

しかし、当時の人たちはその危機を必死で乗り越えました。終戦からわずか10年後の昭和30年(1955年)に、日本経済は戦前のピークの水準を回復するようになり、政府は翌31年(1956年)の経済白書で「もはや戦後ではない」と戦後復興を宣言しました。驚異的なスピードで戦後復興を果たしたのでした。

そして日本は、そのまま昭和30~40年代の高度経済成長に突き進んでいきます。昭和39年(1964年)の東京五輪、同45年(1970年)の大阪万博などを経て、日本は世界第2位の経済大国の座を確固たるものにしたのでした。

戦後の経済発展は、朝鮮戦争特需や米国の援助などに助けられた面がありますが、何よりも当時の日本人が敗戦という危機を全力で乗り越え、それによって戦後復興と高度経済成長を実現することができたのです。まさに幕末・明治以来の"150年のDNA"が力を発揮したわけです。

●石油危機による「日本沈没」の瀬戸際から一転、省エネ大国に
その後も"150年のDNA"は引き継がれます。高度成長が達成された後の昭和48年(1973年)10月、第4次中東戦争で原油価格が一気に3倍に跳ね上がり、日本への石油の供給途絶という危機に見舞われたのです。石油のほぼ100%を輸入に頼る日本にとって深刻な事態でした。

石油危機によって翌年の消費者物価上昇率は年平均23%を記録し、「狂乱物価」という言葉が生まれました。その一方で、経済成長率は戦後初めてマイナスに転落し、インフレと不況が同時進行する「スタグフレーション」となりました。

政府は国民に省エネを呼びかけ、テレビ各社は深夜の放送を休止、夜の繁華街ではネオンも自粛となりました。当時、日本列島が地震によってすべて沈むという小松左京のSF小説『日本沈没』がベストセラーになりましたが、現実の経済が「日本沈没」の瀬戸際に立たされたのでした。

その頃、私は日本経済新聞に入社して間もない新米記者として、松山支局に赴任していました。愛媛県東部には数多くの製紙メーカーが立地していましたが、紙の製造工程で燃料として大量の重油を使うため、その値上がりで各社は減産に追い込まれました。そのためトイレットペーパーなどが品不足となるなど、パニック的な騒ぎが各地で起き、私も取材で走り回りました。

紙の減産は、日本経済新聞をはじめ新聞各社にも影響が及びました。製紙メーカーから新聞用紙の供給を削減され、各社とも新聞のページ数を半分近くに減らさざるを得なくなったのです。

さらに昭和54年(1979年)にイランでイスラム革命が起きたことから、第2次石油危機が起きました。石油の価格がさらに3倍(第1次危機の前からは約10倍)となり、世界経済は再び不況に陥りました。

ところが意外なことに、石油のほぼ100%輸入に頼る日本より、石油自国生産もある欧米のほうが不況が深刻でした。米国は第1次危機と第2次危機でそれぞれ2度マイナス成長に陥り、失業率も大幅に上昇しました。歴史的に見ても、米国経済が最も悪化した時期となりました。

しかし、日本のマイナス成長は第1次の際の1974年だけで、第2次の際は成長率は鈍化したもののプラスを維持しました。政府や各企業が石油危機を乗り越えるため、省エネ技術を向上させ、省エネ体質の経済構造を作り上げたからです。これもまたピンチをチャンスに変える、"150年のDNA"が発揮されたものと言えるでしょう。

特に自動車メーカー各社は、エンジンの燃焼効率向上と低燃費の新車開発に取り組みました。その結果、米国で日本車への評価が高まり、一気に日本車の対米輸出が増えたのです。これに対し、米国自動車業界が反発して、今度は貿易摩擦に発展しましたが、日本の自動車各社は米国での現地生産を開始、円高への対応も加わって、規模を拡大していきました。自動車業界と言えば、いまではグローバルな事業展開の代表例ですが、石油危機と貿易摩擦や円高を乗り越える努力が、その飛躍のきっかけを作ったのです。
○「過度な悲観論」から脱して、「日本の底力」に自信を持とう!

以上のように日本経済は危機に直面し、それを乗り越えることによって強くなってきた歴史を持っています。これが"150年のDNA"であり、日本経済の底力の源泉なのです。本連載では、日本経済の本格復活に向けた新しい動きが起きていることを見てきましたが、これも"150年のDNA"の力が発揮され始めていることを示しています。

日本経済には少子高齢化・人口減少など課題が多いのは事実ですし、国際情勢も、まだまだ予断を許しません。しかし、それにしても長年の経済低迷が影響しているのか、現在の日本人は物事を実態以上に悲観的に考えるクセがついてしまっているように思えます。多くの人がそうした「過度な悲観論」から脱して、「日本の底力にもっと自信を持とう!」と強調したいと思います。

"150年のDNA"――これがある限り、危機は乗り越えられるはずです。令和の時代に日本経済は、必ずや本格復活を遂げるものと確信しています。

○筆者プロフィール: 岡田晃(おかだあきら)
1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。

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